あなたを好きなわたしでいたい

 懐かしいお友だちがブログを移転して心機一転はじめたという知らせを聞いて、無性にうれしくなってしまった。知らせてくれたのがほんとにうれしい。高校生のころからブログのうえでお世話になっているお友だちで、お互いに状況がいろいろ変わった今になってもつながっていられること、わたしとつながっていようとしてくれたこと、がすごくうれしい。
 わたしには連絡無精という致命的な欠陥があって、もらった連絡にすぐ返事をするということがぜんぜんできない。普通のひとにできる普通のことが普通にできない、まあだらしないだけだが。社会生活を送るうえで無責任であることに疑いはないし、そのせいでひんしゅくをかったり幻滅されたりするのは当たり前で合わせる顔がない。かけてもらった声をことごとく無視してたくさんのひとを傷つけてきたことを知ってる。いつしかわたしはひとを避けて一人でいることを選び、切れてゆく縁を切れてゆくままに、ほったらかしで見送るようになっていた。
 もうだめかなと思っていた縁がふっと持ち直すようなタイミングが、それでもまれにある。何か月も何年も音沙汰のなかったひととびっくりするほど楽しく話せてしまったりする。お友だちの新しいブログにはそういう期待を淡く抱いてしまう。彼女の文章をまた読めるのがうれしい。そしてわたしもここでちゃんとわたしを発信したいな。ちゃんとやりなよほんとに。

 

 パトリス・ルコント監督『ぼくの大切なともだち』を観た。ほんとうに友だちってなんなのだろう。そもそも作ろうと思って「作る」ものではないし、むりをしてつなぎとめておくものでもないし、傍にいるかいないかとか、一緒に過ごす(過ごした)時間が長いとか短いとか、それ自体もほんとうは問題ではなく。いつどんなときでも、歳がいくつでも、だれかと友だちになることはできるはずなんだ。逆にいえばどんなに頻繁に連絡をとっていようと相手のためにいくらお金をかけようと、なにかがごっそり抜けていることもある。
 主人公はそこのところがぜんぜんわかっていなくて次々と痛々しい行動をとってしまうのだけど、その滑稽さは万人に通じるものがあると思う。「自分には友だちがいる」と思っているひとこそ友だちを甘くみてる。大のおとなが、必死でがんばって、迷って失敗して恥ずかしい思いをして、それでも結局よくわからない、うまくいかないのが友だちなのだ。「ひとと仲良くなるための三つの魔法」(sympathique, souriant, sincèreで 3S ! )なんてはたからみてるとミクシィのコラムみたいで笑ってしまうが、それは実際にわたしたちが、日常的に演じている喜劇でもあるよね。それから、友だちになることよりも友だちでいつづけることのほうが、ずっと繊細で難しいよね。